“最後だとわかっていたなら”


あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても わかってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたなら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと

だから 今日
あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも いつまでも大切な存在だということを
そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから


                   (ノーマ コーネット マレック)





(555)


 “人の道”


忘れてならぬものは  恩義
捨ててならぬものは  義理
人に与えるものは   人情
繰り返してならぬものは 過失
通してならぬものは  我意
笑ってならぬものは  人の失敗
聞いてならぬものは  人の秘密
お金で買えぬものは  信用


           (中島 巌)





(554)


  “ 人間のうた ”


「うそをつくな」と、おれは言わない。
大事なときにうそをつかなければいいのだから。
大事なときとは、
自分を不幸にするかどうかというときのことだ

「くそまじめにやれ」と、おれは言わない。
くそまじめにやって損をすることが多いからだ。
だけど、やらなければならないときは、
どんなにつらくても、苦しくても、
やりぬかなければならない。
それは、自分をだめにするかどうかというときだ。

「ケンカをするな」と、おれは言わない。
つまらないことでしなければいいのだから。
つまらないケンカとは、
みにくい感情むきだしのことだ。
ここからは、なにも生まれてはこないのだ。
だから、ケンカはつとめて避けるがいい。
だが、始めたら、相手の息の音が
止まるまでやめてはならない。

「だれとでも仲よくしろ」と、おれは言わない。
ほんとうのなかまと仲よくできればいいのだから。
ほんとうのなかまとは、
自慢話ができる相手のことだ。

「まちがいや失敗をするな」と、おれは言わない。
大事なことをまちがえなければいいのだから。
大事なことで失敗しなければいいのだから。
まちがいや失敗をおそれてはならない。
おれが言う大事なこととは、
二度と立上がれない自分になるかどうかということだ。
意志と体力で支えきれなくなるかどうかいうときだ。
他のまちがいや失敗は、星の数ほどあったとしても、
少しこわがることはない。
まちがいや失敗から正しく学んでいく限り、
自分を高めていけるからだ。
まちがいや失敗を一つもしない人間は、
結局、なんにもしなかったやつなのだ。

「いつも正しくあれ」と、おれは言わない。
神様にも動物にもなれるのが人間だから。
正しく美しい者に感動するが、
悪いことをまねるのも人間だから。
喜びと悲しみを同時に受けとめることができるのも人間だから。
いつ、どんなときにも、
うんと喰って、うんとたれて、うんと眠るがいい。
そしてまた、力を合わせて働こう。

「親に心配かけるな」と、おれは言わない。
心と体が丈夫なやつほど、
何かをしないではいられないやつなのだ。
そうである限り、なにかどこかで、
親に心配かけるにちがいないからだ。
思いきって勇ましく生きてゆけ。

幸せは、祈って待っているもんじゃない。
戦いとっていくものだ。
自分の弱さと醜さを克服していくときに得られるものだ。
自分を大切にできない限り、
どうして人を大切にすることができようか。
自分を大切にすることが、
同時に多くの人々を大切にすることになる生き方。
それは、人間にだけできるのだ。
そのことが、人間として生まれてきた者の
義務であり権利なのだ。
そのように生きていったとき、
おれたちのまわりに人間が発見され、
ほんとうのなかまもできるのだ。
そのことが、どれほど切なく哀しく苦しくても、
その道が、どれほど険しくきびしいものであったにせよ、
歩き続けていかなくてはならないのだ。

雨が降って、曇っていても、
見ろ
あの雲の上には太陽がある。


                           (深沢義旻)





(553)


  “ 好い日 ”


いい映画を見た
かたわらの妻も泣いていた
私もこんなに感動したことは近頃なかった
あんなに涙を流したことも珍しいことだった。

人間が一人前になってゆくには
こんなにも突っ放され
はずかしめられ
くるしまねばならないのか
そしてその苦しみを支えてくれるものは
なんであるか
愛の偉大さのなかにのみ
花がひらき
実をむすぶ

その美しい物語は
家のなかで泣きあうことも
なくなってしまった私たちを
まったく一つ心にして
ふたたび結ばせてくれた

外に出ると
小雨が降っていたが
それさえしっとりと
気持ちよく受け入れられる
あたたかい心になっていた


           (坂村真民)





(552)

  “ 存 在 ”


陽がさすと
どの子のうしろにも小さな影ができる
わたしのうしろにも
すこし大きい影が

そんな些細なことにも
おどろかされる朝がある
わたしたちは
光と影のけじめに立つべく
この世におくられてきたのだ と

すっくと 立たなければ・・・
胸を張って 歩かなければ・・・
ねえ 
無心にはしゃぎ回っている子どもたち

コップに コップの影がある
木の腰かけに 木の腰かけの影がある
これは些細なことなんかじゃなく
重大なことなのだと
きわめて神妙に考えこむ朝が ある


              (新川和江)





(551)

“ 一本の道を ”


木や草と人間と
どこがちがうだろうか
みんな同じなのだ
いっしょうけんめいに
生きようとしているのをみると
ときには彼等が
人間よりも偉いとさえ思われる
かれらはときがくれば
花を咲かせ
実をみのらせ
自分を完成させる
それにくらべて人間は
何一つしないで終わるものもいる
木に学べ
草に習えと
わたしはじぶんに言いきかせ
今日も一本の道を歩いて行く


        (坂村真民)





(550)

あえて寸を進まずして

尺を退く


    (老子「徳経」)





(549)

現実が夢を壊すことがある。

だったら、

夢が現実を壊すことがあってもいいじゃないか。


           (ジョージ・ムーア)





(548)

“木の中の人”


木々は葉をのこらず落とし、
日の中に白く立っている。

その影はあわく
風に歌わず
まるでもう、枯れてしまったようだ。

だが 木は生きている。
それから堅い幹の中を、枝の中を
根からこずえまで
土の水が、樹液が
いまも、たえまなく、のぼっていくのだ。

しんとして つよく
ひとり考えて いわない人よ。
あすのしたくに いそしむ人よ。

はだか木の林に立ちどまり
一本のはだにじっと耳をおしあて
木の中の「人」の考えを聞こう。


        (丸山 薫)





(547)

  “ 思い出 ”


ああ こんな夕日を たしか・・・・
そのあとは どうしても思い出せない

いつだったか どこでだったか
心の底に そのときの記憶が
うっすらと 沈んでいるのだが

この いちめんに にじんだものを
そっと ひとところに あつめたら・・・・

あの日の匂いが たちのぼるだろうか
あの日の風が ふくのだろうか


           (工藤直子)





(546)

a.幸せを手に入れる方法とは、幸せを手に入れようとしないこと。何かを追
い求めている間は、ただひたすら苦しいだけです。幸せの宇宙構造とは、自
分が今どれほど幸せか、ということに気がつくことです。例えば、目が見え
ることの幸せに感謝したことがあるでしょうか。今、自分が持っているもの
が、全部幸せなんだということです。そう思ったら、たくさん感謝すること
ができます。

b.「幸せ」という現象が独立して存在することはありません。ただ、生活の
中に幸せを感じるかどうかだけです。同じ現象を、ただ喜べるかどうかを考
えているだけでも、まったく違った人生になります。楽しい事、人、物とい
うものを追い求めなくても、日常生活に幸せを感じられるようになるのです。

c.「しあわせ」の語源は「為し合わせ」です。「仕合わせ」ともいいます。
お互いにしてあげることが、「幸せ」の語源であり本質です。してもらう事
だけ求めないで、見返りを求めずに自分からしてあげると幸せに近づきます。

d.天気に良いも悪いもなく、そう思う心があるだけなのです。現象はすべて
「ゼロ=中立」であり、「そう思う心があるだけ」という見方をすると楽に
なります。般若心経の「色即是空、空即是色」とはそういう意味です。私の
周りで起きる事は、すべて私のそう思う心があるだけなのです。ところが、
人は自分をとりまく全ての事象について、淡々としていることは難しく、宇
宙には本来「問題はない」のに、「問題」を自分で探し出し創ってしまうの
で、永遠に悩み苦しみがなくならないのです。

e.他人を変えようと思っても無駄で、なにひとつ解決しません。他人を変え
ることをやめましょう。「悟り」とは、「受け入れる」こと。自分の思い通
りにしようと思わないこと。そうすると、悩み苦しみは全くなくなります。
自分がどう生きるかだけに徹する。それが楽しそうで幸せなものであれば、
必ず周りの人が影響を受け、あなたは、暗闇を照らす太陽のような人になれ
るでしょう。

f.最後まで残る怒り憎しみというのは、実は正義感から発生します。人格が
97点になって怒らないイライラしない人になっても、落とし穴が待ってい
る。「私はこれほど正しい人になり、これほど人格を磨いたのに、なぜ他の
人はそうならないのか」という落とし穴なのです。だから、「正義感」「使
命感」はあまり振り回さない方がいいようです。「カン」は振り回さずに、
ゴミ箱へ。

g.地球や宇宙のリズムと合っている人の共通項は、常に口から出てくる言葉
が、うれしい、楽しい、幸せ、愛してる、大好き、ありがとう、ツイてる、
などの肯定的な言葉であることです。反対に、地球や宇宙を敵にまわしてい
る人の共通点は、つらい、悲しい、つまらない、いやだ、きらい、不平不満、
愚痴、泣き言、悪口、文句などの否定的な言葉を多く言っているということ
です。

h.否定的に生きると損、肯定的に生きると得。私達は怒っている時に吐き出
した空気の中に、実はものすごい毒素を含んでいる。怒ると誰が一番被害を
被るかというと、実は自分なのです。怒りは自分自身の体を壊すのです。だ
から、腹を立てない方が損得勘定としては、利口だということです。

i.愚痴を言って泣き言を言って宇宙に不平不満を投げかけていることが、結
局は自分にとってものすごく損なのです。投げかけたものは返ってくるので
す。好ましいものに囲まれていないという人は、自分がまわりに投げかけた
ものが好ましいものじゃなかったということです。喜ばれるように生きてい
ると、喜びに囲まれることになる。かんたんな構造です。仕事もいやいやで
はなく、楽しくやるほうが良いのです。まず、愚痴や泣き言、悪口をやめま
しょう。

j.自分の口からでてくる言葉は、「言えば言うだけ、もう一度それを言いた
くなるような現象が降ってくる」というのが、宇宙の法則です。聖書にも「
はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあり。言葉は神なりき」とあります。
「嬉しい、楽しい、幸せ、愛してる、大好き、ありがとう、ツイてる」とい
うような喜びの言葉を沢山言っていると、またその言葉を言いたくなるよう
な現象が自分の身を取り囲むのです。

k.「−−−になりたい」「−−−が欲しい」と叫んでいる人は、その願いど
おりにいつまでもその状態が続きます。「ありがとう」を沢山いつも言って
いる人には、また、「ありがとう」と言いたくなるような現象が起こります。
「仏様、・・・・して下さってありがとう」と先にお礼を言いましょう。


                                      (小林正観)





(545)

“ ほほえみ ”


ほほえむことができぬから
青空は雲を浮べる

ほほえむことができぬから
木は風にそよぐ

ほほえむことができぬから
犬は尾をふり・・・

だが人は
ほほえむことができるのに
時としてほほえみを忘れ

ほほえむことができるから
ほほえみで人をあざむく


        (谷川俊太郎)





(544)

“ 愛の量り ”


そのうち愛の深さを量る
機械ができるだろう

花への愛
鳥への愛
人への愛

恥ずかしいが
量ってもらいたい時がある


       (坂村真民)





(543)

  “ この道 ”


道は何気なく通りすぎて
しまうことが多い
でも いまこのとき
この道を歩くのはただ一度だけ

天から落ちる木もれ日を
手にうけて
私は飲むまねをする
「まあ 何をしているの?」
女は笑って聞く

この年の新しい光が
心にともったようで
私はあかるく笑っている


           (高田敏子)





(542)

“ 元日の夕日に ”


一九九一年十二月三十一日の夕日が
一九九二年一月一日の朝日になって
東の空に昇ったとき
その朝日を
私たちは「初日」と呼びましたーーーしかし
今、目の前で赤々と西の山に入りかける
元日の夕日を、どう呼んだらいいか
私はわからずにいます

元日の朝日には「初日」の名があるのに
同じ日の夕日には親しい呼び名がありません
名がないことは人間の無関心の証拠
それさえ気付かずにきた私たちの長い迂闊
その迂闊に少し恥ずかしい思いをしながら
私は
美しすぎる元日の夕日を
しばし見送っています

それにしても
元日の夕日に親しい呼び名を送ろうとした野暮天が
今まで一人もいなかった?


              (吉野弘)





(541)

“おむすびクリスマス”


君はもう忘れてしまったかしら
二人だけのクリスマス・イヴ
あの頃僕等 お互いの愛のほか
何も持たなかった

それでも僕等は精一杯に
生きようとしてたね
ケーキのかわりに君がこさえた
おむすびの塩が胸にしみた

おむすびクリスマス 忘れない
笑い乍ら 泣いていた君を
おむすびクリスマス 本当は
とても幸せだったと あとで気づいた


あれからいくつもの年を重ね
別々の人生
それぞれがそれぞれの愛に包まれ
迎えているクリスマス・イヴ

ひとりでおむすびをほおばる僕を
とても不思議そうに
みつめる小さな瞳にいつか話して
やる日が来るかしら

おむすびクリスマス 忘れない
笑い乍ら 泣いていた君を
おむすびクリスマス 本当は
とても幸せだったと あとで気づいた


         (さだまさし)





(540)

  “日だまり”


お日さまは
きょうも探しています
あたたかな日だまりを
どこに作ろうかと

ガードのわきのこの道は
おてつだいも出来ない
小さな子どもたちの遊び場
配達の少年が 少しの間
自転車を休めて
ふるさとの空を思うところ

お日さまもお忙しい年の暮れ
こうした場所に日だまりを
たくさん作るために・・・


          (高田敏子)





(539)

  “ ゆき ”


いいえ
つめたいなどといわないで
あなたにだってあるでしょう
けそうとしても けしきれない
つめたいゆきの ふるところ
ずっと ずっと おくのおくに
そこだけ しろくうきあがる
ふりしきるゆき
ふぶきつづけるゆきが

いいえ
かなしすぎるといわないで
ひとのこころは ひとにはみえない
だれもがもっている
つめたいゆきのふるところ
ずっと ずっと おくのおくに
そこだけしろくないている
ふりしきるゆき
ふぶきつづけるゆきが

いいえ
さびしすぎるといわないで
あなたのむねにふぶきつづける
しろいゆきのいのちは
ひとにやさしさ
きっと わけて あげられる
そのときあなた だきしめるでしょう
ふりしきるゆき
ふぶきつづけるゆきを


          (江口あけみ)





(538)

くさびだから

一番大事な

ところへうつ

くさびだから

見えないように

うつ


  (相田みつを)





(537)

“ 一切無常 ”


散ってゆくから
美しいのだ
毀れるから
愛しいのだ
別れるから
深まるのだ
一切無常
それゆえにこそ
すべてが生きてくるのだ


      (坂村真民)





(536)

英語では
「わたしのいちばん好きな花の一つだ」
という言い方をする

いちばん好きな花が
いくつもあるのは
おかしいのではないかと
ずっと考えてきたことなのだけれど

おとなりの
オカモトさんちのおばあちゃんは
花がとっても好きで
赤い花を見せると
「わたし、この花がいちばん好き」と言うし
黄色い花を見せても「いちばん大好き」
紫の花を見せても
白い花を見せても「いちばん」と言う

どの花もとっても好きだから
どの花も「いちばん」
そう、おばあちゃんが教えてくれた

英語は
まちがっては
いなかったんだ


           (大橋政人)





(535)

“ 枯れ葉と星 ”


朝から吹き荒れた木枯らしが
夜になってやみました
散り落ちた枯れ葉たちは
身をよせあい
重なりあって
空を見ていました

空にはいつもよりたくさんの星が光って
散り落ちた枯れ葉たちを見ているようでした

星と枯れ葉は
見つめあったまま ときがすぎました
そして それから
星の一つが 流れるように下りてきて
木の枝の一つにとまりました
また一つ 星が下りてきて
木の枝にとまりました
また一つ
また一つ
散り落ちた枯れ葉の数の
星が下りてきて
木の枝々にとまりました

散り落ちた枯れ葉たちは
木の枝の星を見上げて思いました
ーーあれは わたし わたしが光っている
  春の日も 夏の日も
  わたしたちは あのように
  いつも光っていたーー

枯れ葉は
冷たい土の上にいながら星になっていました
もう さびしくはありませんでした


               (高田敏子)





(534)

“ 11月の思い出 ”


けむりを見ていた11月
別れ話をした11月

本屋の店先で育児の本を立読みしていた11月

仲直りに一晩中抱きあっていた11月

雨にぬれて不動産屋へ行った11月
ギターを買って帰った11月

新聞の自殺記事を見ていた11月
名もない花が咲いた11月

なぞなぞあそびをしていた11月
新しいハンドバッグを買った11月

二人が出会ったのは11月だった
二人が別れたのも11月だった

11月は海霧が町にかかった


          (寺山修司)





(533)

   “ 落葉 ”


人の耳には ただ
「かさっ・・・」としかひびきませんが
その一言を 忘れる落葉はありません
きん色の秋の空から おりてきて
いま 地面にとどいた
という その一しゅんに

「ただいま・・・」
なのでしょうね それは
長い長い旅のバトンタッチを終えて
ようやっと ふるさとの
わが家の門に たどりつき
ようやっと それだけ言えた

そして たぶん それには
大地のお母さんの
「おかえりなさい・・・」
も重なっているのでしょう
「おつかれさま
 さあ 私の胸でゆっくりお休み・・・」
という 思いのこもった

そのうえ ほんとうは それには
宇宙のお父さんの
「さあ 元気に行っておいで・・・」
もまた 重なっているのでしょう
大地に休むということは
明日の生命を 育てるための
「土」への 出発なのでしょうから

人の耳には ただ
「かさっ・・・」としかひびきませんが


          (まど・みちお)





(532)

  “ 顔 ”


そんな顔をしていたら
もとに戻らなくなりますよ、
というと
娘はぷっと吹き出し
アッカンベーをやめたが

表情には
戻らない部分があるのかもしれない
あのときのわたしの喜びの顔 悲しみの顔
薄い和紙をはり重ねて作る お面のように
顔は
これまでの表情の総和ではないか
刻まれてしまった 眉間のしわよ

娘と笑いあっていても
遠い悲しみが透けて見えそうで
わたしはもう一枚
笑顔をかぶせる


             (瀬野とし)





(531)

人生が歌のように流れているとき、

人はだれでも陽気でいられる。

しかし、何一つうまくいかないとき、

ほほえむことのできる人こそ価値ある人。


        (ヘイゼル・フェリマン)





(530)

“ おだやかな心 ”


ものを欲しいと
おもわなければ
こんなにもおだやかな
こころになれるのか
うつろのように考えておったのに
このきもちを
すこし味わってみると
ここから歩きだしてこそ
たしかだとおもわれる
なんとなく
心のそこから
はりあいのあるきもちである


          (八木重吉)





(529)

自分で自分を決めつける人はまた他人のことも決めつける傾向がある。
神経症的な人は相手を決めつける。あなたは幸せだ、あなたは友達に恵まれ
ている、あなたは強いから傷つかない、あなたはこれが好きだ、あなたはあ
れが嫌いだ、あなたは親切な人だ、あなたは苦労していない等等決めつける。

今度は逆に相手がつくるイメージに自分を合わせる人がいる。相手がつくる
イメージに縛られる。相手が理想のイメージを押しつけて来る。するとその
イメージに合わせて行動しようとする。そのイメージに自分を合わせて演技
しようとする。ランガー教授の言うmindlessnessに相手の言うことを受け入
れる人である。

シーベリーが言うところの「悩む人」というのがこのタイプである。「私は
そういう人間ではありません」と言えないから悩むのだとシーベリーは言う。
そしてこれを言えないのが執着性格であり、メランコリー気質であり、循環
気質なのではなかろうか。なぜならこの種の人は他人の期待に応えることが
人生の目標になってしまっているからである。

あなたは優しい人だ、あなたは力がある、などと決めつけられるとそれを演
じようとする。「そんなことはありません」とはなかなか言えない。「あな
たは強い人だ」と言われると、「そんなことはない、私だってあなたと同じ
に傷つきます」と言えずに、傷つかない強い人間を演じようとする。


                                     (加藤諦三)





(528)

“ 迷ったときに ”


人生に道がいくつかあって、
どれを行こうか迷ったとき、
私は、どれもみんな○だと
思うことにしています。

どれかひとつが正しくて、
ほかのはぜんぶ間違い! と思っていると、
ハムレットのようになって、
問題じたいに、はまってしまうからです。

こっちの道を行けばこんな楽しさが、
あちらを行けばあんな幸せがある。
と思って、
レストランでメニューを決めるときのように
わくわくしていれば、
自然と心がかるくなって、
自分に向いた道が選べると思うのです。

立っている場所から
前、うしろ、右、左へ、
360度、どこにでも進める、
その、自由さ。

それでも、変なのを選ぶかもしれない!?
と、心配になるときには、
こころに、こう言いきかせます。
どれはよくて、どれは変だと、
どうして決められるのでしょう。
だれが、決めるのでしょう。

それよりも、ずっとずっと大切なのは、
自分の来た道を、受け入れること。
自分の行く道を、よく見ること。

人生には、毎瞬毎瞬、
無限の選択肢があって、
気が遠くなるような
無限の無限乗の道から、
たったひとつを選んで、
ここにいる、私。
どうして、愛しくないわけがあるでしょう。

いまいるところが、
私のいるところ。
私の、愛するところ。


            (鈴木重子)





(527)

“ 秋の海辺 ”


夕方になると
秋の海は静かにトランペットを吹く

少年は子猫を抱いて
海を見せにやってくる

陽焼けした老人は
波の号令に合わせて体操をはじめる

一点にうずくまり
本を読む人

一点に立ちつくし
夕映えの雲に見入る人

だれもが自分だけの海と向かい合う
不思議なひととき


          (三保みずえ)





(526)

“ 雨の日 ”


雨がふって
傘をさして
歩いている
おとなは さびしそう
ひとりひとりが 雨に区切られて
ひとりぼっちの さびしさを
傘の下に歩かせている

雨がふって
傘をさして
歩いている
子どもは たのしそう
雨に区切られた 一人の世界に
ほこらしく 胸を張っている


早く早く おとなになりたい子ども
雨の冷たさが身にしみるおとな
雨の日 雨の日
傘の下で 私の思ったこと


          (高田敏子)





(525)

   “ 海辺 ”


・・・しばらく見ない海の色
・・・しばらく聞かない波の音
でも おくさん
「思い出」への旅行はご自由
お台所から一足とびに
心を洗いにでかけませんか

 娘たちは
 歌って とびはねて・・・
 波も背のびしてみとれてる

砂浜に光っている貝がらは
私たちのかわいい青春
ときどき集めにかえりませんか
おくさん!


               (高田敏子)





(524)

世間から笑われまいとする努力など、死物狂いで戦っている零細企業の人
にはない。
世間に対する体裁をつくることはわれわれ日本人がよくやることである。
それは、世間に対する体面の維持によって、われわれは世間から何らか
の報酬を期待しているのである。

私は自分の力以上のものを得ようとは思わない。そんな人が体面や体裁を
気にするだろうか。たとえば、戦国時代を生きぬいた者たちは、世間を意
識して笑われまいなどという努力をしたであろうか。世間を意識して笑わ
れまいとしはじめたのは、江戸時代からであったという。
体面、体裁、そのようなものが人々の意識の中で重要になってきたのは、
社会が安定し、文化が洗練されてきた時代に入ってのことなのである。

おそらく個人について考えても同じである。戦っている者は、他人に自分
がどう映るかなどと恐れていない。それを恐れて体面をとりつくろうのに
苦労などしない。

他人の視線に過敏な人は、他人から保護を求めているにちがいない。
自分の力以上のものは期待しない人、自分で自分を守る覚悟の人、そんな
人がなんで他人の視線に過敏になったりしようか。


                          (加藤諦三)





(523)

“ 過 ”


日々を過(す)ごす
日々を過(あやま)つ
二つは
一つのことか

生きることは
そのまま過ちであるかもしれない日々

「いかが、お過ごしですか」と
はがきの初めに書いて
落ちつかない気分になる
「あなたはどんな過ちをしていますか」と
問い合わせでもするようでーーーー


           (吉野弘)





(522)

“ ある日 ”


ある日わたしは
自分を戒め
引きずっても
高めてくれる
親がいいとおもった

ある日わたしは
自分をなぐさめ
ふところに抱き
眠らせてくれる
親がいいとおもった

ある日わたしは
自分のそばにいて
なにもせずに
こたつねこのように
ねむりくらす
親がいいとおもった

ある日わたしは
もうどうでもよく
ただひたすら
わたしの親であり
いるだけでいいと
親を思うようになった

そのときは
もう
いなかった


   (関 洋子)





(521)

とにかく具体的に動いてごらん

具体的に動けば 具体的な答が出るから

                (相田みつを)





(520)

     “ 大きな世界の住人とは ”


人間には損得感情というのがある。その損得感情で結びついている世界、
それが「小さな世界」なのである。

強大な権力をもち、それにつき従っている人間がいかに多かろうと、
もしその人が権力の座を離れた時、人が一人もついてこないならば「小
さな世界」の住人である。

巨万の富をかかえて、人が百万人ついてきても、富の王国をきずいて世
界を支配してみても、一文無しになった時、誰もついてこないとすれば、
たとえ世界の覇者となっても、その人は「小さな世界」の住人である。

権力の座にはなく、また将来権力の座につこうというのでもないのに、
人がついてくる、これが「大きな世界」の住人である。
主人が権力の座につく気持がなければ、いかにつかえても自分が栄達す
ることはない。それでもつかえる、それが「大きな世界」の住人なので
ある。

自分の子分に金をやり、あるいは大臣にしてやったり外遊させてやった
りしないかぎり、人がついてこないのは、総理大臣になっても「小さな
世界」の住人なのだ。


                          (加藤諦三)





(519)

“ しあわせのうた ”


東に住む人は しあわせ
生れたばかりの 太陽を
一番先に
見つけることが できるから

北に住む人は しあわせ
春を迎える よろこびを
誰より強く
感じることが できるから

南に住む人は しあわせ
いつでも花の 首かざり
愛する人に
捧げることが できるから

西に住む人は しあわせ
いつも終わりに 太陽を
明日の空へ
見送ることが できるから

生きていることは しあわせ
悲しいときも あるけれど
未来をいつも
夢みることが できるから

未来をいつも
夢みることが できるから


(木下龍太郎作詞・高井達雄作曲)





(518)

“ 呼びごえ ”


まちかどや 公園などで
よく耳にすることば
「おかあさァーん」
思わずふりむいてしまうのは
私だけではないだろう

おばあさんは思いだす
遠い戦地でなくなった息子のこと
若い母親は
乳房がきゅっと張ってくるのを

 感じる
 そのころ
 るすばんの子どもたちも
 呼んでいるにちがいない
 遊びあきた庭や 食卓の
 まえでこっそりと
「お か あ さ ん」

母と子は
いつも心のどこかで呼びあっている
若葉がきらりと光ったり
ゆれたりするのは
やさしい心が いつも
空の下を渡っているからです


           (高田敏子)





(517)

神経症的な人は人に好かれようと努力する。それなのに人の喜ばせ方を知らない。
なぜ喜ばせ方を知らないかといえば、思いやりがないからである。心がないとい
ってもいいかもしれない。

心は眼に見えない。恋人が好きだといいながらも、恋人に食べさせる料理をつく
るのに新鮮なものを遠くまで買いにいくことをしない。近くのスーパーやデパー
トの缶詰ですましてしまう。調理してしまえば材料は眼に見えない。
しかしその材料が心を表しているのである。材料の選び方に心が表れる。
時間をかけてわかる思いやりというものが神経症的な人にはない。神経症的な人
はその場で相手に自分を売り込むことしか考えていない。

他人からいやな人だと思われることを恐れながら、他人からいやな人と思われる
ことをしてしまうことがある。たとえば言い訳である。しつこく言い訳するのは
自分を認めてもらえないことを恐れているからである。しつこく言い訳すれば相
手が迷惑するということが考えられない。

神経症的な人はよく立派なふりをする。しかしその立派なふりが相手を苛立たせ
るということに気がついていない。神経症的な人が演じる理想の人は、どうして
周囲の人から好感を得られないのだろうか。それは自分を売りこむための理想の
人だからである。頭のいい女を売りこもうとしている女は愚かな女である。

今、あなたが第一に知らなければならないことは、「嫌い!」といっても「嫌わ
れない」ということである。いいたいことをいってごらんなさい、前よりも人は
あなたに好意を持つようになるに違いない。


                                        (加藤諦三)





(516)

 第一には、元気な人とはつとめてつきあう、ということである。
個人的なつきあいにおいて、活力のある人とつきあうことは大切なことである。
ことに自分が落ちこんでいるときは、活動的で元気な人と接することである。
というのは、元気な人と接することで人間は元気になる。無気力な人と一緒に
いると、たとえこちらが多少元気であっても、次第に気力を失ってしまいがちである。
いつも文句ばかりいっている人間と一緒にいるという義務は、われわれにはない。
また、いつも不機嫌な人間と一緒にいることは美徳でもない。
いつも他人のあら探しばかりしている人間と一緒にいると、いつの間にかわれわれも
他人のあら探しが自分の仕事になってしまう。そして自分が自分を嫌いになる。


                              (加藤諦三)





(515)

“ 忘れられた海 ”


砂浜は
その面影を とりもどし
海は いま
青の色を深めている
すてられた麦わら帽子も
やがて波が洗い
沖へながれてゆくだろう

 オフィスの窓辺で
 小麦色の腕が
 タイプをたたいている

 あなたは知らない
 あの麦わら帽子に
 かもめの親子が
 羽をやすめていることなど・・・


        (高田敏子)





(514)

“ 木もれ日 ”


少年は
過ぎてゆく夏を追って
林のなかをかけめぐる

少女の手の
まだ鳴きつづけるセミは
夏のかたみ・・・

少年の肩に 木もれ日
少女の肩に 木もれ日


        (高田敏子)





(513)

“ 静かな日 ”


目は見ることをたのしむ。
耳は聴くことをたのしむ。
こころは感じることをたのしむ。
どんな形容詞もなしに。

どんな比喩もいらないんだ。
描かれていない色を見るんだ。
聴こえない音楽を聴くんだ。
語られない言葉を読むんだ。

たのしむとは沈黙に聴きいることだ。
木々のうえの光り。
鳥の影。
花のまわりの正午の静けさ。


          (長田弘)





(512)

人の評判がこわくなりだす時がある。
それは、ありのままの自分で生きようとして第一歩を踏みだした時である。
第一歩を踏みだそうとする時はまだ他人の評判はこわい。
しかし、第一歩を踏み出してしまった時には、不思議なくらいこわくなくなりはじめる。
あとは春の陽に雪が消えていくように、他人の評判に対する恐怖心は消えていく。

朝から一日がかりでラーメンのスープをつくる男性がいる。料理が好きなのである。台所
には自分用のエプロンがおいてある。編み物の好きな男性もいる。自分でセーターを編ん
では親しい人にプレゼントしている。
これらは、他人からよい評判を得るためにやるのではない。まさに自分のためにやるので
ある。

自分のための生活を大切にし、あるがままの自分として生きることは、その人に心理的な
安定をもたらすにちがいない。そして、このような生活はまた多くの親しい友人をつくる
にちがいない。
なぜならこのような生活には恐れが入る余地がない。恐れのない人は利己主義者ではない。
利己主義者でない人には友人ができる。

われわれの利己主義は恐れによって発動される。自分の評判が悪くなることを恐れて生活
している人をよく観察してみればわかる。たいてい利己主義者である。


                                (加藤諦三)





(511)

失敗を恐れる人は失敗を招くし、失敗を恐れない人は成功を招くという不思議な
ことが心理的にはある。
失敗を恐れる人というのは、失敗を重大視し過ぎるのである。
失敗したことで実際には自分の周囲は何も変化しない。
自分を取り巻く人間関係がそれによって変わるわけではない。
しかし、失敗を重大視し過ぎる人は、その失敗によって自分を取り巻く人間関係が
変わると錯覚する。
そして自分からその様に変わった対応をしてしまう。
相手が自分のことを相手にしないのではなく、自分から相手にされないと思い込ん
でその人から離れていく。

失敗しそうなとき失敗したら大変だと感じるか、失敗したらしたでしかたないやと
感じるかは、かなり決定的な差である。
自分に自信のある人は失敗を恐れない。自分に自信のない人は失敗を恐れる。
失敗するから自信をなくすのではない。自信のある人は、失敗してもそれによって
心理的打撃を受けない。

自信のある人というのは、楽天的である。戦う楽観主義者である。
自信のない人は、悲観的である。ちょっと旨くいかない兆候があるとそれに気を取
られてしまう。そして戦わずしてああもうだめだとなる。


                         (加藤諦三)





(510)

  “ みちくさ ”


まわりばかりを気にしていると
自分のことが見えなくなるよ
他人の服はきれいに見える
自信を持っているように見える
あせらない あせらない
きみの歩く道は 石ころだらけで素敵じゃないか
あせらない あせらない
水たまりに映った空が あんなにきれいじゃないか

自分一人で生きられるほど
力もないし 勇気もないし
ひとに合わせて生きてゆくほど
素直じゃないし 器用じゃないし

あせらない あせらない
きみの歩く道が ひとにはみちくさに見えたとしても
あせらない あせらない
風に揺れる花が きみの来るのを待ってたんだよ
あせらない あせらない
きみの歩く道が ひとにはみちくさに見えたとしても
あせらない あせらない
水たまりに映った空が あんなにきれいじゃないか


              (新沢 としひこ)





(509)

“ かなしくなったときは ”


かなしくなったときは
海を見にゆく

古本屋のかえりも
海を見にゆく

あなたが病気なら
海を見にゆく

こころ貧しい朝も
海を見にゆく

ああ 海よ
大きな肩とひろい胸よ

どんなつらい朝も
どんなむごい夜も
いつかは終る

人生はいつか終るが
海だけは終らないのだ

かなしくなったときは
海を見にゆく

一人ぼっちの夜も
海を見にゆく


      (寺山修司)





(508)

     “ 雑 草 ”


だれも 種をまかないのに
芽をだして しげって
人の暮らしに やくだたないから
ひっこぬかれ かりとられる
雑草とよばれる 植物たち

その実をたべる 虫がいる
その虫をたべる タカがいる
そのタカをのむ 海がある
その海をだいて まわる地球

一つぶの 雑草の種にも
母があり その母の母がある
何万年の 光と
空気と水と 大地の歴史を
ぎゅっとかためた 一つぶ

雑草一本 ひっこぬくとき
むねを つらぬくもの
あれは
光と空気と 水と大地の
くりだす とうめいなヤリなのか

だれも 水をやらないのに
日でりにも びっしりしげって
じぶんで じぶんをまもって
大地を がっしり陣どって
雑草とよばれる 植物たち


       (なかの ひろ)





(507)

花は、だまって咲く。

咲くまでの苦労をしゃべらない。

それを自慢したり、愚痴ったりしたつぼみは、

つぼみのままで散った。

咲く花は、だまって咲く。


           (むの たけじ)





(506)

  “ 燈 台 ”


やさしい灯がひとつあれば
海をつつむ
闇がどんなに大きくとも
船は迷わず
安らかに 沖を行くでしょう

やさしい灯がひとつあれば
ひるまは波立ち さわいでいた海も
お母さんに子守歌を
うたってもらう子どものように
もう むずりはしないでしょう

魚も 貝も
しずかに夢をみるでしょう
かもめも 千鳥も
岩かげで羽をたたむでしょう
やさしい灯が海にひとつあれば


            (新川和江)





(505)

  “ 千の風 ”   あとに残された人へ


私の墓前で泣くのはやめてください。
私はそこにいません。眠ってなんかいません。

私は千の風となって大空を駆けています。
私はダイアモンドのきらめきとなって雪に舞っています。
私は陽の光になって熟した穀物にふりそそいでいます。
私は優しい秋の雨となっているのです。

朝の静けさの中、あなたが目覚めるとき
わき上がる風となって
小鳥たちを輪を描いて舞わせます。
私は夜に輝く静かな星となって、あなたを見守っています。

だからどうか私の墓前で泣くのをやめてください。
私はそこにいません。私は死んではいないのです。
新しく生まれたのですから


                 (作者不詳)





(504)

“ あしたに向かって ”


さよなら告げる 水草に
行ってきます を くりかえし
川はながれる
あしたに向かって

なごりをおしむ 木々の葉に
行ってきます を くりかえし
風は吹いてく
あしたに向かって

つぎつぎ出会う 鳥たちに
行ってきます を くりかえし
雲はとんでく
あしたに向かって

きょうまでの日の 何にでも
行ってきます を くりかえし
わたしも進もう
あしたに向かって


        (宮田滋子)





(503)

   “ そのまま このまま ”


この世に自分の顔ほどおもしろいものはない
なんだこりゃ 妙なもんだ
みればみるはどへんちくりんだけど
生まれおちたその日から これでわたしをやってきた
ずいぶん泣いたね たくさん笑ったな
つらいときは陰り うれしいときは輝く
いいでしょ この顔 天の贈りし芸術品
だれにも文句は言わせない
そのまま このまま じぶんのまんま

この世に自分の心ほどめずらしいものはない
びっくりするね へんな性格
つくづくいやになることもあるけれど
みんなとぶつかりながら なんとか自分をやってきた
ひねくれてるよね やさしいとこもあるな
しくじるとへこみ ほめられるとふくらむ
いいでしょ へんな人 天の授けしキャラクター
胸はって自分を生きてくぞ
そのまま このまま じぶんのまんま

この世に自分の縁ほどありがたいものはない
おかげさまで おかしな家族
因果な友とも切れぬ仲だけど
あんたたちに会えたから わたしはわたしになれた
傷つけられたよね その倍傷つけたな
一緒だと疲れ 離れてるとさみしい
いいでしょ くされ縁 天の結びしなかまたち
いつまでも迷惑かけあおう
そのまま このまま じぶんのまんま

この世に自分の過去ほどすばらしいものはない
よくやってきたよ しんどい日々を
人はついてないねなんて言うけれど
主人公はこのわたし ひとつだけの物語
わすれたいこともあるね でもわすれられないな
倒れてうずくまり もういちど歩き出す
いいでしょ この人生 天の定めし大河ドラマ
なにもかもあれでよかったんだ
そのまま このまま じぶんのまんま

この世に自分自身はど尊いものはない
世界に一人で 歴史に一度
自信をなくすることもあるけれど
もしわたしがいなければ この宇宙の意味がない
めざめれば 我あり人あり天地あり
朝起さて賛美 夜すべてに感謝
いいでしょ このわたし 天の親のいとしいわが子
よくぞわたしに生まれけり
そのまま このまま まんまのまんま


               (晴佐久昌英)





(502)

    “ 成功の祈り ”


神よ、人生は何故に与えられたのでしょうか
何故さまざまな人がさまざまな運命を背負って
生きているのでしょうか

神よ、ある人は男に生まれ、ある人は女に生まれ、
ある人は富で生まれ、ある人は貧しく生まれ、
そして、ある人は病弱で、ある人は健康です

神よ、何故にこのような人々を作られたのでしょうか
一人静かに人生というものを思いめぐらして見たときに
私はどうしてもそれぞれの人に、
それぞれの星というものがあり
ある星の輝きのもとに生きているように思えるのです

しかし、神よ、あなたが偉大なる愛の方であるならば
あなたは不幸を不幸とし、
幸福を一部の人だけの特権とされることは
あろうはずもないと思うのです

おそらく、神よ、あなたはすべての人に
成功を与えんとしておられるはずです
すべての人に、その人にふさわしい成功を
与えんとしておられるはずなのです

その人にとっての成功、
それはいったいなんでしょうか
何をもって成功とすればいいのでしょうか
どのような生き方をもって
成功とすればいいのでしょうか

それぞれの人間関係の中で、
さまざまな環境の中で、
成功もまた人それぞれに違ったものになるはずです
私にも必ず私に合った成功があると思うのです

私の個性に合った成功
私の長所に合った成功
私の短所を埋め合わすための成功
人生の中でさまざまな妨げを
乗り越えていくという意味での成功

そして、失敗という名の成功
たとえ私がいくつかの失敗をしたかに見えても
それもまた私の心の糧となっている
その意味においても失敗もまた成功

神よ、本当の成功とは
感謝できる心と学びました
成功が感謝であるならば
感謝の言葉を身上として生きていこうと思います 


                (作者不詳)





(501)

    “ おわリは、はじまり ”
 

もう終わってしまったと あなたは言う
あの子は死んでしまった 二度と帰ってはこない
校庭を走り抜ける姿も てれくさそうな笑顔も
もう見ることはできない
あの子と一緒に私も死んでしまったと あなたは言う
けれど おわりは、はじまり
今日が あの子とあなたが共に生きる人生のはじまり
あの子は死んでないよ
ほら もう走り出している

もう終わってしまったと あなたは言う
この病気は決して治らない 残された時間はもうない
身を削って働いた日々も 家族で植えた庭の木々も
何もかも無駄だった
私の生涯は一体何だったんだろうと あなたは言う
けれど おわりは、はじまり
この一瞬が 生きて生かされるいのちのはじまり
あなたはそのままで健康だよ
ほら 毎朝があなたの誕生日


もう終わってしまったと あなたは言う
二人の愛は消えてしまった 二度と心は通わない
並んで歩いた星降る砂浜も 人を信じるよろこびも
すべてはつかの間の夢だった
自分を捨ててまでは愛せなかったと あなたは言う
けれど おわりは、はじまり
一本の電話が ゆるしてゆるされる二人のはじまり
愛は決して滅びないよ
ほら まだ手を握ったまま

もう終わってしまったと あなたは言う
取り返しのつかない失敗をした 人生おしまいだ
一つ一つ重ねてきた信用も 固めてきた立場も
自らの愚かさで壊してしまった
あとは生きていても何の意味もないと あなたは言う
けれど おわりは、はじまり
すべてなくして 裸と裸のつきあいのはじまり
人生に失敗なんてないよ
ほら 何もこわくないこれが自由

もう終わってしまったと あなたは言う
人類は過ちを犯した やがてすべては滅びるだろう
輝く奇跡の星地球も 生命の尊い進化の歴史も
欲望と闘争で汚し続けている
罪深い人間たちに未来はないと あなたは言う
けれど おわりは、はじまり
新しい人が 仕えあう喜びを生きる世紀のはじまり
ぼくたちは世の終わりを越えていくよ
ほら 今生まれた聖なる子が 目をひらく


               (晴佐久昌英)







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